LOGIN「水瀬さん?」
名前を呼ばれ、美緒は雨の中へ踏み出しかけた足を止めた。
振り返ると、神代蓮司がホテルの正面玄関からこちらへ歩いてくるところだった。黒いスーツに濃いグレーのコートを重ね、騒がしい車寄せの中でも不思議と目を引く。美緒がこれまで何度か接客した限りでは、長期滞在中の企業経営者らしいということ以外、詳しい素性は知らなかった。
彼はホテル側が用意した特別室を利用していたが、横柄なところがない。深夜に戻ってきてもフロントへ無理な注文をせず、翌朝に顔を合わせれば夜勤スタッフにも「昨夜はありがとう」と声をかける。高額な宿泊料金を払っている客ほど、時にサービスを当然と考えるものだが、蓮司はむしろ人にしてもらったことをよく覚えている人物だった。
そんな客に、今の顔を見られたくなかった。
美緒は反射的に仕事用の笑顔を作った。
「神代様。こんばんは」
自分で口にしてから、おかしいと思った。
勤務中でもないのに、いつものように「神代様」と呼んでしまった。
蓮司も気づいたらしく、わずかに眉を上げる。
「こんばんは。……と言うべきなんでしょうけれど、そんな顔をしている人に普通の挨拶だけして通り過ぎると、あとで少し寝覚めが悪そうです」
「そんな顔、してますか?」
「かなり」
即答だった。
愛想笑いでごまかす余地すら与えてもらえず、美緒は困って口元を押さえた。
「すみません。お客様の前なのに」
「今のあなたは勤務中ではないでしょう」
「それでも、ここは職場ですから」
「職場から一歩出たところでも?」
そう言いながら、蓮司はホテルの軒先と美緒の足元を交互に見た。
美緒の右足はすでに雨に濡れていた。
「傘は?」
「持っていません。朝は降っていなかったので」
「では、貸します」
「いえ、大丈夫です。駅まではそれほど遠くありませんから」
「大丈夫に見えないから声をかけたんですが」
今日だけで何度「大丈夫」と口にしただろう。
茜にもそう言った。
父にも、本当は言おうとした。
長年、誰かに心配をかけないために使ってきた便利な言葉が、今夜はやけに薄っぺらく感じられた。
美緒が返答に詰まると、蓮司は追及せず、近くにいたドアマンから一本の傘を受け取った。
「これを」
「でも、ホテルの備品では……」
「僕が借りていたものです。返却は明日で構わないと言われています」
「神代様がお困りになります」
「僕は車です」
その答えと同時に、車寄せの向こうで黒いセダンのヘッドライトが点いた。
運転手らしい男性が、こちらの様子を見ながら待機している。
「それなら……お借りします。ありがとうございます」
美緒が傘を受け取ると、蓮司は少しだけ安心したように表情を緩めた。
「送った方が早そうですが、それを言うと断られますか?」
「はい。たぶん断ります」
「即答ですね」
「今日、少しだけ人に気を遣われるのがつらくて」
言ってから、正直すぎたと思った。
けれど蓮司は気を悪くした様子もなく、むしろ小さく笑った。
「なるほど。それなら無理に親切な人間を演じるのはやめておきます」
「演じてたんですか?」
「半分くらいは」
意外な返事に、美緒の口元がわずかに緩んだ。
数分前まで家族と恋人に責められていたせいか、何の事情も知らない客との他愛ないやり取りが、妙にありがたかった。
蓮司は美緒の顔をしばらく見ていたが、それ以上は踏み込まなかった。
「では、今日は傘だけ。返すのは急がなくていいですよ」
「明日、必ずお返しします」
「水瀬さんならそう言うと思いました」
なぜか、その言い方が少し気になった。
「私、そんなに分かりやすいですか?」
「責任感が強い、という意味です」
「それなら……ありがとうございます」
「ただし、それが長所だけとは限らないでしょうけれど」
美緒が聞き返す前に、蓮司は軽く会釈した。
「おやすみなさい、水瀬さん」
「おやすみなさい、神代様」
美緒は傘を開いた。
今度こそ雨の中へ歩き出す。
数歩進んで振り返ると、蓮司はまだホテルの軒下に立っていた。
目が合った途端、美緒はなぜか気まずくなり、すぐに前を向いた。
今夜の出来事を知らない人に見送られることが、こんなにも救いになるとは思わなかった。
けれど、その小さな救いも、翌朝には別の問題に押し流されることになる。
◇
美緒はほとんど眠れないまま朝を迎えた。
帰宅してから一度だけ泣いた。
声を上げて泣いたわけではない。
クローゼットの前でワンピースを脱ぎ、それをハンガーへかけた瞬間、急に涙が止まらなくなった。
今日のために買った服。
亮介の隣に立つために選んだ服。
もう二度と着られない気がして、床に座り込んだまましばらく動けなかった。
それでも翌朝には目覚ましを止め、いつも通りシャワーを浴び、制服に着替え、髪をまとめた。
仕事を休むという選択肢は、最初から頭になかった。
むしろ休みたくなかった。
家に一人でいれば、考えなくていいことまで考えてしまう。
ホテルへ向かう電車の中でスマートフォンを見ると、未読メッセージが大量に届いていた。
亮介からは三件。
『昨日は言い方が悪かった。落ち着いたら話そう』
『今日の仕事には影響させないでくれ』
『午前中に少し時間を作る』
最後の一文を見て、美緒は思わず眉を寄せた。
影響させないでくれ。
それは自分が言われるべき言葉なのだろうか。
莉奈からも長いメッセージが届いていたが、まだ開けなかった。
父からは、
『帰宅していないようだが、今日は仕事なのか。感情的に会社へ迷惑をかけることだけはするな』
と来ていた。
美緒は画面を閉じた。
ホームの窓に映る自分の顔は、寝不足のせいで少し青白い。
「大丈夫」
小さく言いかけ、途中でやめた。
今日はもう、その言葉を使いたくなかった。
ホテルへ着くと、昨日までと同じ朝が始まっていた。
ベルスタッフが荷物を運び、フロントでは外国人旅行客がチェックアウトをしている。ロビーにはコーヒーの香りが漂い、吹き抜けの大きな窓から柔らかな朝日が差し込んでいた。
何も変わっていないように見える。
変わったのは自分の方だった。
「水瀬さん」
バックヤードへ入った途端、茜が駆け寄ってきた。
「昨日、本当に大丈夫でした? 帰ったあと心配で……でも連絡するのも迷惑かなと思って」
「ありがとう。ちょっと色々あって」
「色々って……」
茜は続きを聞きたそうにしたが、美緒の顔を見て口を閉じた。
「分かりました。聞かないです。でも、必要なら私、いつでも話聞きますからね」
「うん」
美緒は少し迷ってから付け加えた。
「ありがとう。本当に」
その時、ゲストリレーション部の責任者である三田村部長が、奥の事務室から顔を出した。
「水瀬さん、出勤したら私のところへ来てもらえる?」
「はい」
いつもと違う声音だった。
怒っているわけではない。
むしろ妙に丁寧だった。
こういう時の丁寧さが、良い話につながることは少ない。
美緒は荷物をロッカーへ入れ、そのまま事務室へ向かった。
三田村は五十代の女性で、現場経験が長く、美緒も入社以来ずっと世話になってきた。
扉を閉めると、三田村はすぐに本題へ入らず、机の端に置いた書類を何度か揃え直した。
「昨日のことは聞いてる?」
「どのことですか?」
「……柊木専務と、あなたの妹さんの婚約発表」
「はい。本人たちから直接」
「そう」
三田村は困ったように唇を結んだ。
美緒には、その顔だけで嫌な予感がした。
「何かありましたか?」
「会社として、人事上の調整が入ることになったの」
「人事?」
「あなたには今日付で、宴会予約管理の補助へ異動してもらうことになったわ」
意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「宴会予約管理……補助、ですか?」
「そう」
「私、何か問題を起こしましたか?」
「違うの」
三田村はすぐに否定した。
「能力の問題でも勤務態度の問題でもない。むしろ私は反対したわ。あなたがVIP対応から外れるのは現場にとって痛いから」
「では、なぜ?」
三田村は言葉を選んだ。
「上からの判断よ」
美緒は黙った。
このホテルで「上」という言葉が誰を指すのか、分からないほど鈍くはない。
「柊木専務ですか?」
「私の口からは……」
「そうなんですね」
三田村が苦しそうな顔をしたことで、答えは確定した。
美緒は椅子の背へ手を置いた。
頭の中が妙に冷静になる。
「理由を聞いてもいいですか?」
「新しい婚約者があなたの妹さんでしょう。会社として、同じホテル内で顔を合わせ続けるのは好ましくないという判断らしいの。特にあなたはVIP対応だから、取引先や役員とも接点が多い。今後、柊木家の家族行事や対外的な行事も増えるし……」
「だから私を表から外す?」
「水瀬さん」
三田村がつらそうに名前を呼んだ。
美緒はそこで、自分の言い方が責めるようになっていたことに気づいた。
「すみません。部長に言っても仕方ないですよね」
「謝らないで。私だって納得してないのよ」
三田村は声を落とした。
「これまであなたがどれだけ現場を支えてくれたか知ってる。去年の国際会議だって、あなたがいなかったらどうなっていたか分からない。海外VIPの固定客にもあなたを指名する方がいる。それを、こんな理由で……」
そこまで言って、三田村は口を閉ざした。
組織の中で働いている以上、言えることには限界がある。
美緒にもそれくらいは分かる。
「異動はいつからですか?」
「今日から」
「今日?」
「形式上は来月一日付。ただ、それまで有給消化扱いにする案も出ていて……」
「つまり、今日からゲストリレーションの仕事には入れないんですね」
三田村はゆっくりうなずいた。
美緒の胸に、昨夜とは違う種類の痛みが広がった。
亮介を失ったことは、もちろん苦しい。
けれど仕事は別だった。
このホテルに入って七年。
失敗もした。
新人の頃、外国人客の英語を聞き取れず、先輩に助けてもらったこともある。怒鳴る客の前で涙を堪え、バックヤードへ戻ってから悔し泣きしたこともある。
それでも学び続けた。
英語だけでは足りないと思って中国語も勉強し、海外の接客文化について自費で講座を受け、苦情記録を読み込んでは改善案を作った。
恋人との関係とは違う。
この仕事だけは、自分自身の力で積み重ねてきたと思っていた。
それさえ、亮介との関係ひとつで外されるのか。
「専務と直接、話をさせてください」
三田村が驚いた。
「水瀬さん」
「喧嘩をするつもりはありません。ただ、理由は本人から聞きたいです」
「……分かったわ」
三田村は少し迷ってから、内線電話へ手を伸ばした。
「ただし、無理だけはしないでね」
「はい」
美緒はそう答えた。
今度の「はい」は、大丈夫という意味ではなかった。
ただ、自分の口で確かめると決めたという意味だった。
◇
亮介の執務室へ入ると、彼はパソコンの画面から顔を上げた。
「来たか」
昨夜のことなどなかったような口調だった。
テーブルの上には何枚もの書類が広げられ、秘書が用意したらしいコーヒーが置かれている。
「異動のこと、聞いた」
「ああ」
「あなたが決めたの?」
「俺一人じゃない。人事と役員にも相談してる」
「あなたが提案した?」
亮介は少し黙ってから答えた。
「そうだよ」
「理由は?」
「昨日も言っただろ。これから莉奈が俺の婚約者として会社の行事にも出る。お前が近くにいたら、お互いやりづらい」
「私は仕事と私生活を分けるつもりだった」
「お前がそうでも周囲は違う。変な憶測も出るし、マスコミに嗅ぎつけられたら面倒だ」
「私は七年間、この部署で働いてきた」
「別に辞めろとは言ってない」
亮介は椅子にもたれた。
「配置転換だよ。会社員なら普通にある話だろ」
「宴会予約管理の補助って、これまでの仕事とほとんどつながってないよね」
「仕事なんだから覚えればいい」
「私が今まで担当していた海外顧客やVIPは?」
「他のスタッフへ引き継ぐ」
「中国語対応できる人は?」
「外注もできる」
一つ答えるごとに、美緒の中で何かが削られていく。
「亮介」
「何だよ」
「あなた、私がこの仕事をどれだけ大事にしてたか知らなかった?」
亮介は少し困った顔をした。
「知ってるよ」
「知らないよ」
「またそうやって決めつけるなって」
「知ってたら、こんなに簡単に外さないでしょう」
「簡単じゃない。会社のことを考えた結果だ」
「会社のこと?」
「そうだよ。莉奈との婚約はもう公表した。これからは柊木家として付き合いのある人間にも紹介していく。元恋人のお前が目の前で接客していたら、どう思われる?」
美緒はしばらく亮介を見つめた。
「恥ずかしいの?」
「は?」
「元恋人が同じホテルで働いてることが」
「そんな話じゃない」
「じゃあ、莉奈が嫌がる?」
「莉奈は何も言ってない」
「でもあなたは、莉奈が嫌な思いをするかもしれないから先回りして私を外した」
「だから、なんでそう悪く取るんだよ。お前だって顔を合わせるのはつらいだろ。離れた方が気持ちも整理できる」
まただった。
美緒のため。
美緒が傷つかないため。
本人に一度も聞かずに決めて、それを親切の形にして差し出してくる。
「私の気持ちは、私に決めさせて」
「美緒」
「昨日も言ったよね」
亮介は苛立ったように額を押さえた。
「じゃあどうしろっていうんだ。莉奈との婚約を解消して、お前と何事もなかったみたいに働けばいいのか? 現実的に考えてくれよ」
「誰もそんなこと言ってない」
「だったら配置転換くらい受け入れろよ。給料を下げるわけでもないんだから」
その瞬間、美緒の中で何かがすっと冷めた。
亮介にとって仕事とは、給与と役職だけなのだ。
少なくとも、美緒の仕事についてはそう考えている。
何を積み重ねてきたのか。
どんな客に名前を覚えてもらったのか。
何を勉強し、どんな仕事に誇りを持っているのか。
そんなことは、彼の判断基準には入っていない。
「分かった」
美緒が言うと、亮介はわずかに表情を緩めた。
「分かってくれたなら――」
「でも、その前に確認したいことがある」
「何だ?」
「海外ホテル共同ブランドの企画、昨日の役員会に出した?」
亮介の表情が一瞬変わった。
それだけで、美緒には分かった。
「出したんだ」
「仕事の話なら後で――」
「私が作った企画書だよね」
「俺が指示を出して作らせたものだ」
「違う」
美緒は静かに言った。
「あれは二年前から私が現場で集めてきた顧客データをもとに作った企画。富裕層向けだから豪華にするんじゃなくて、長期滞在客ほど地域文化と日常的なサービスを求める傾向が強いって分析して、国内外の小規模高級ホテルと連携する案をまとめた。あなたに見せたのは、経営側の意見が欲しかったから」
「会社の設備と情報を使って作ったなら、会社の成果だろ」
「それは否定してない。私が聞いているのは、誰の名前で出したのかってこと」
亮介は答えなかった。
美緒の胸が重くなる。
「企画責任者、誰になってるの?」
「俺だ」
予想していたのに、実際に聞くと呼吸が浅くなった。
「私の名前は?」
「実務担当者の一覧には入ってる」
「企画責任者じゃなくて?」
「最終的に経営判断するのは俺だ。それに、お前が作った初稿のまま出したわけじゃない」
「最終案を直したのは私だよ」
「美緒」
「先週も、あなたに頼まれて夜中まで修正した。海外パートナー候補の調査もした。収益予測も経理と確認して作り直した。あれを昨日、あなたの企画として出したの?」
亮介の顔に、露骨な面倒くささが浮かんだ。
「こういう話になるから嫌だったんだよ」
「どういう話?」
「別れた途端、仕事の貢献まで持ち出して、自分がどれだけやったか主張するみたいな話」
美緒は息を呑んだ。
「私、今まで一度でも手柄を自分だけのものにした?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味?」
「企画なんて一人で作るものじゃないだろ。お前が現場側の材料を集めた。俺が経営目線でまとめた。それでいいじゃないか」
「私が作った企画書を、あなたの部屋で一緒に読んだ時、何て言ったか覚えてる?」
「いちいち覚えてないよ」
「『美緒はこういう仕事が向いてる。次の役員会で俺から上に通してやる』って言った」
亮介の眉が動いた。
「だから通しただろ」
「私の企画としてじゃなくて、あなたの企画として?」
「だから同じ会社だろ!」
机を叩くほどではなかったが、亮介の声が部屋へ響いた。
しばらく沈黙が続いた。
美緒は、その中でようやく気づいた。
自分が亮介を支えていると思っていた五年間。
資料を作り、相談に乗り、彼が忙しい時には代わりに調査をした。
そのたびに「助かった」と言われていた。
それが嬉しかった。
恋人として役に立てていると思った。
けれど亮介の中では、いつからか全部が自分のために用意されるものへ変わっていたのかもしれない。
「退職します」
口にすると、不思議なくらい声は震えなかった。
亮介が固まった。
「……何?」
「この会社を辞めます」
「何言ってるんだよ」
「聞こえたでしょう」
「感情で仕事を辞めるな」
「感情だけじゃない」
美緒は亮介をまっすぐ見た。
「婚約を解消されたから辞めるんじゃない。妹と婚約したからでもない。私生活の問題を理由に仕事を外されて、私が作った企画をあなたの成果として扱われて、それを当然みたいに説明する会社では、これからも同じことが起きると思ったから辞める」
「大げさだろ」
「私には大げさじゃない」
「今辞めてどうするんだよ。次の仕事だって決まってないだろ?」
「決まってない」
「じゃあ冷静になれよ」
「冷静だから辞めるの」
自分で言ってから、美緒は初めて本当にそう思っていることに気づいた。
昨日なら、耐えたかもしれない。
亮介と別れても、仕事だけは失いたくないと考えて、異動を受け入れたかもしれない。
でも一度だけ「嫌だ」と言ってしまった。
父に対して。
妹に対して。
すると、それまで当たり前だと思っていたものまで、少し違って見え始めた。
「退職届は今日中に出します。引き継ぎが必要なら、会社の規定に従って対応します」
「待て、美緒」
「何?」
「お前、本気で言ってるのか?」
「本気だよ」
「昨日からおかしいぞ。今までのお前なら、こんな――」
亮介は途中で言葉を止めた。
だが、遅かった。
「今までの私なら、何?」
「……いや」
「我慢した?」
亮介は答えない。
美緒は小さく息を吐いた。
「たぶん、そうだね。私もそう思う」
「違う。俺はそういう意味で――」
「でも、もうやめる」
美緒は扉へ向かった。
「亮介、五年間ありがとう。それは嘘じゃない。楽しかったこともあったし、助けてもらったこともある。でも、だからってこれからも私が全部飲み込まなきゃいけない理由にはならないでしょう?」
亮介は何も言わなかった。
その顔には怒りと戸惑いが混じっていた。
もしかすると、これまで自分のそばにいた美緒なら、最後には折れると思っているのかもしれない。
美緒にも、その気持ちは分からなくはなかった。
自分自身ですら、昨日までそういう人間だと思っていたのだから。
「退職届は人事に出すね」
「美緒」
今度の呼びかけには応じず、美緒は執務室を出た。
◇
退職の意向を伝えると、三田村はしばらく何も言わなかった。
「本当にいいの?」
「はい」
「今すぐ決めなくてもいいのよ。私は人事に掛け合うこともできる。異動だって、時間を置けば変わるかもしれない」
「部長がそう言ってくださるのは嬉しいです」
美緒は正直に答えた。
「でも、今戻れたとしても、この会社で何かを頑張るたびに、また個人的な事情で取り上げられるかもしれないって考えると思うんです。だったら、一度外へ出た方がいいと思います」
「次は決まってる?」
「いいえ。真っ白です」
「そこは少しくらい見栄張りなさいよ」
三田村が苦笑した。
美緒も少しだけ笑った。
「すみません」
「謝るところじゃない」
三田村は机から立ち上がり、美緒の前へ回ってきた。
「七年間、お疲れさま。って言うのは、まだ早いわね。引き継ぎもあるし、規定上すぐ退職というわけにはいかないでしょうけど……少なくとも、私はあなたの仕事を評価していた。そこだけは忘れないで」
その言葉を聞いた瞬間、美緒の目の奥が熱くなった。
「ありがとうございます」
「泣くならここで泣いていいわよ。廊下に出たら、またみんなに心配されるでしょう」
「そう言われると余計に泣きそうです」
「じゃあ泣きなさい」
三田村はティッシュ箱を差し出した。
美緒は一枚だけ取り、目元を押さえた。
昨日、亮介に捨てられた時よりも、今の方が涙が出た。
恋愛を失った痛みだけではない。
七年間過ごした場所から、自分の意思で離れることへの怖さもあった。
この先どうなるか分からない。
次の仕事が見つかる保証もない。
二十八歳で、結婚する予定だった相手を失い、その翌日に退職を決めた。
文字にすれば、ひどく無計画な女に見えるだろう。
けれど、不思議と後悔はなかった。
◇
夕方、美緒は私物をまとめるため、一度ロッカーへ戻った。
正式な退職日はまだ先になるものの、会社側から有給消化を勧められ、明日以降は引き継ぎの必要がある日だけ出社することになった。
小さな段ボール箱へ私物を入れていく。
替えのストッキング。
筆記具。
接客英語の古いノート。
中国語の単語帳。
茜から誕生日にもらった小さなハンドクリーム。
七年間の仕事人生というには、驚くほど荷物は少なかった。
「本当に辞めちゃうんですか」
隣で茜が泣きそうな声を出した。
「まだ正式には少し先だけどね」
「納得できません。水瀬さんが何したっていうんですか。むしろ専務の方が――」
「茜ちゃん」
「あ、はい」
「ここでは、それ以上言わない方がいいよ」
「でも」
「私が辞めるのと、茜ちゃんがここで働くのは別だから。変に巻き込まれないで」
茜は納得できない顔をしていたが、やがて悔しそうに唇を尖らせた。
「そうやって最後まで人の心配するから駄目なんですよ」
「駄目って言われた」
「駄目です。もっと怒っていいんです」
昨日から、妙に同じことを考えさせられる。
怒っていい。
嫌だと言っていい。
自分の希望を口にしていい。
二十八歳にもなって、そんな当たり前のことを初めて覚えているようだった。
「次、決まったら絶対教えてくださいね」
「分かった」
「約束ですよ」
「うん」
「あと、専務より立派な人と結婚してください」
「急に難易度上げるね」
「大丈夫です。世の中広いんですから」
美緒は笑った。
久しぶりに、無理に作らなくても出てくる笑いだった。
箱を抱え、従業員用エレベーターで一階へ下りる。
裏口から帰ろうとも思ったが、昨日借りた傘を返していないことを思い出した。
「あ……」
神代蓮司の傘だった。
自宅の玄関に置いたままになっている。
明日返すと言ったのに、明日は通常勤務ではない。
連絡先も知らない。
「今度来た時にフロントへ預ければいいか」
一人でつぶやき、ロビーを横切った。
昨日までなら、歩きながら無意識に客の様子を確認していた。
困っている人はいないか。
荷物を探している人はいないか。
案内表示を見て迷っている人はいないか。
その癖は、辞めると決めたからといってすぐには消えない。
ちょうどエントランス近くで、高齢の外国人女性がスーツケースを前に困っているのが見えた。
近くのスタッフは別の客を対応中だった。
美緒は段ボール箱を床へ置いた。
「May I help you?」
声をかけると、女性はほっとしたような顔をした。
予約した送迎車の場所が分からないらしい。
美緒は運転手名と予約表を確認し、車寄せスタッフへ引き継いだ。
「Thank you. You are very kind」
「You’re welcome. Have a safe trip」
女性を見送ってから、床に置いた箱へ戻る。
そこで初めて、少し離れたラウンジ入口に人が立っていることに気づいた。
神代蓮司だった。
昨日と同じような黒いスーツ姿で、こちらを見ている。
「……神代様」
「こんにちは、水瀬さん」
蓮司の目が、美緒の抱えている段ボール箱へ移った。
「ずいぶん大きな忘れ物ですね」
「ああ、これは……」
どう説明しようか迷う。
さすがに客へ、
恋人に捨てられ、その恋人に職場を外され、勢いで退職しました。
とは言えない。
美緒は結局、無難な答えを選んだ。
「私物の整理をしていたんです」
「異動ですか?」
「……どうしてそう思うんですか?」
「ホテルを辞める人の顔には見えなかったので」
美緒は目を丸くした。
蓮司は少し考えてから訂正する。
「すみません。今のは僕の勝手な印象ですね」
「いえ」
美緒は段ボール箱を抱え直した。
「辞めるんです。このホテル」
口にすると、思ったよりあっさりしていた。
蓮司の表情から笑みが消えた。
「そうですか」
「はい」
「残念です」
社交辞令だろう。
そう思った。
ところが蓮司は続けた。
「僕はあなたの接客を気に入っていたので」
美緒は少し戸惑った。
「ありがとうございます」
「転職先は決まっているんですか?」
「いえ。今日決めたばかりなので、何も」
「今日?」
蓮司はそこで美緒の顔を見た。
昨夜、泣きそうな顔で雨の中へ出ようとしていた女が、翌日には私物を抱えて職場を辞めると言っている。
事情を知らなくても、何かあったとは分かるだろう。
それでも蓮司は詳しく尋ねなかった。
「そうですか」
その一言だけだった。
詮索されないことに、美緒はまた少し救われた。
「あの、昨日の傘なんですけど、自宅に置いたままで……」
「傘?」
「お借りしたでしょう」
「ああ」
「必ず返しますので」
「そんなことを気にしていたんですか?」
「借りたものなので」
「なるほど」
蓮司は少し笑った。
「本当に、水瀬さんらしい」
「またそれ言いますね」
「悪い意味ではありません」
「昨日も同じことを言ってました」
「覚えていたんですね」
「私、そこまで記憶力悪くないです」
いつの間にか普通に言い返していた。
気づいて少し恥ずかしくなる。
けれど蓮司はむしろ楽しそうだった。
「それなら傘は、また会った時に返してください」
「でも、私もうここには――」
「会うことくらいはあるでしょう」
あまりに自然に言われ、美緒は返答に困った。
このホテルを辞めれば、自分と蓮司は宿泊客とスタッフですらなくなる。
東京に何百万人いるか分からない中で、偶然再会する可能性など高くない。
それなのに蓮司は、また会うことを当然のように言った。
「……そうですね」
美緒は曖昧に答えた。
スマートフォンが震える。
画面を見ると、亮介からだった。
『今どこにいる。退職の件、まだ取り消せる。話をしよう』
その文字を見ただけで気持ちが重くなる。
美緒は画面を伏せた。
「出なくていいんですか?」
「今は、いいです」
「そうですか」
蓮司はそれ以上尋ねなかった。
美緒は段ボール箱を持ち直す。
「では、失礼します。今までありがとうございました」
「水瀬さん」
呼び止められた。
「はい?」
蓮司はしばらく何かを考えていたようだった。
それから、静かな声で尋ねた。
「今夜、時間はありますか?」
美緒は思いがけない質問に目を瞬いた。
「時間、ですか?」
「食事をしませんか」
「私と?」
「他に水瀬さんはいないでしょう」
冗談なのか本気なのか分からない口調だった。
「でも……どうして?」
「あなたが昨日よりひどい顔をしているから、と言えば断られそうですね」
「断ります」
「でしょうね」
蓮司はわずかに笑った。
そのあと、少しだけ真面目な表情に戻る。
「では正直に言います。前から一度、仕事以外で話してみたいと思っていました」
美緒は何も言えなかった。
頭の中で意味を処理するのに時間がかかる。
蓮司は急かさなかった。
「もちろん、嫌なら断ってください。今のあなたに、誰かへ気を遣わせるつもりはありません」
昨日も同じだった。
送ると言いながら、断れば引いた。
事情を聞こうともしなかった。
美緒の周りには、自分のためだと言いながら美緒の意思を聞かずに決める人が多かった。
蓮司は逆だった。
何かを差し出す。
しかし、選ぶのはこちらへ残してくれる。
たったそれだけのことが、今の美緒にはひどく新鮮だった。
「食事だけ、ですよね?」
「僕としては食事以外に何を想像されたのか少し気になりますが、食事だけです」
「そんな言い方されたら余計に警戒します」
「それは失敗しました」
美緒は少しだけ笑った。
そして迷った。
家に帰れば、一人だ。
父や莉奈からの連絡に悩まされ、亮介のメッセージを見て、今日一日のことを何度も考えるだろう。
知らないに近い男と食事をする方が、むしろ何も考えずに済むかもしれない。
「……一時間くらいなら」
蓮司の表情がわずかに変わった。
「十分です」
「高いお店は困ります」
「なぜ?」
「今、無職になったところなので」
自分で言ってから、美緒は情けなくなって笑った。
蓮司も笑った。
「では、割り勘にできる店を探しましょう」
「本当に?」
「あなたがその方が気楽なら」
美緒はうなずいた。
この時の美緒には、ただ夕食に誘われたという認識しかなかった。
ましてや、目の前にいる男が何者なのかも、本当の意味では知らない。
そして、その食事の席で人生最大級に突拍子もない提案をされることになるなど、想像できるはずもなかった。
第20話 初めて、自分の仕事に値段をつけました 条件面談の日程が決まったあと、美緒は人生で初めて「自分はいくらの給料をもらうべきなのか」を真剣に考えることになった。 これまで給与というものは、会社が決めるものだった。 昇給通知を受け取ればありがとうございますと言い、賞与額を見て少し喜んだり落ち込んだりする。それ以上のことを考えた経験はほとんどない。 まして、自分から希望額を口にするなど想像したこともなかった。 ところがグランド・ルミエール東京から届いた案内には、はっきり書いてある。『これまでのご経験、および想定する役割を踏まえ、ご希望の待遇をお聞かせください』 美緒は朝からノートパソコンの前で、その文章を何度も読み返していた。「……ご希望って言われても」 つい独り言が漏れる。 前職の年収を基準にすればいいのか。 同年代のホテルスタッフの相場を見るべきなのか。 今回提示されているのは、ゲストリレーション業務だけではなく運営改善プロジェクトの兼務だ。 なら責任は増える。 けれど、管理職経験はない。 英語は業務で使えるが、中国語は完璧ではない。 考えれば考えるほど、自分を高く言う理由と低く言う理由の両方が出てきた。「五十万くらい下げて言った方が……」「なぜです?」 突然背後から声がして、美緒は椅子の上で飛び上がりそうになった。「蓮司さん!」「はい」「いつ帰ってきたんですか?」「今です」「音しませんでしたよ」「しました」 またこの会話である。 蓮司はネクタイを緩めなが
第19話 「社長夫人だから採る気はありません」――その言葉に、私はほっとしました グランド・ルミエール東京の二次選考は、最初の面談から四日後に決まった。 現場責任者と総支配人を交えた実務面接。 そう聞いた時から、美緒は妙に落ち着かなかった。 一次面談は、自分が何をしてきたかを話す場だった。しかし今回は、実際にその経験が通用するのかを見られる。 書類に書いた語学力。 七年間のホテル勤務。 VIP対応。 クレーム処理。 現場改善。 どれも嘘ではない。 それでも、前の職場では長く働いているうちに「水瀬さんならできる」が先に立つようになっていた。初めて会う人間たちが、自分をどう評価するのかは分からない。 朝食のパンを半分ほど残したところで、向かいに座っていた蓮司が口を開いた。「食欲がない?」「あります」「では、なぜ止まっているんですか」「考え事してました」「今日の面接?」「はい」 蓮司はコーヒーを飲みながら、美緒の皿へ視線をやった。「無理に食べろとは言いません。ただ、面接の途中でお腹が鳴ると、それはそれで気になるのでは」「……食べます」「それがいいと思います」 美緒はパンを一口かじった。「蓮司さん、緊張しないんですか?」「何に?」「大事な商談とか、初めて会う相手とか」「しますよ」「見えません」「見せないようにしているので」 意外だった。「神代さんでも?」「僕を何だと思っているん
第18話 財閥CEOの妻ではなく、一人のホテルマンとして面接を受けました グランド・ルミエール東京との面談当日、美緒はクローゼットの前で十五分ほど悩んでいた。 転職活動の面接なら、以前使っていた紺色のスーツでいい。そう思って自宅から持ってきたのだが、鏡の前に立つと、急に色々なことが気になってくる。 堅すぎないだろうか。 古く見えないだろうか。 七年間同じホテルで働いてきたため、本格的な転職面接を受けるのは新卒以来だった。「まだ着替えていなかったんですね」 寝室の入口から声がして、美緒は振り返った。 出勤前の蓮司が立っている。「ノックしてください」「しました」「聞こえませんでした」「かなり集中していたようなので」「服で悩んでたんです」 蓮司はベッドの上に並べた二着を見た。 一つは紺色のパンツスーツ。 もう一つは先日買ったネイビーのワンピースにジャケットを合わせたものだ。「どちらでも似合うと思います」「その答え、一番役に立たないです」「難しいですね」「面接なんですよ。ホテルの」「分かっています」「だったら、採用する側としてどう思います?」 聞いてから、美緒は「あ」と声を漏らした。「やっぱり今のなし」「なぜ?」「蓮司さん、ホテル事業も持ってる会社のCEOでしょう。助言をもらったら、なんか不公平な気がする」 蓮司は少し考え、それから真面目な顔で答えた。「では、夫として言います」「はい」「美緒さんが落ち着ける方で行けばいい」「&h
第17話 夫の従妹は、私を「財産目当てでは?」と疑っていました」 美緒が次の仕事を探し始めて三日目の朝、神代家から新たな人物がやってきた。「初めまして。神代沙耶です」 リビングで名刺を差し出した女性は、蓮司より三歳年下の三十歳だという。 肩までの黒髪を隙なく整え、濃紺のパンツスーツを着こなし、化粧も装飾品も控えめだった。美人なのは間違いないのだが、笑顔になっても相手を観察する目だけは少しも緩まない。 名刺には、神代グローバルホールディングス法務統括室の肩書きが記されている。「こちらこそ初めまして。神代美緒です」 自分も名刺を出そうとして、美緒は手を止めた。「あ……すみません。今、名刺がなくて」「当然でしょう。退職されたばかりだと伺っています」「はい」「それに今日は仕事の面談ではありませんから、必要ありません」 言葉は丁寧だった。 けれど妙に硬い。 隣にいる蓮司を見ると、彼は何とも言えない顔をしていた。「沙耶」「何?」「最初からその調子なのか」「法的な話をしに来たのだから、遊びに来たような態度を取る方がおかしいでしょう」「美緒さんが緊張する」「その美緒さんは、あなたより落ち着いて見えるけれど」 沙耶の視線が戻ってくる。 美緒は思わず姿勢を正した。「緊張してます」「そうですか?」「かなり」「それなら普通ですね」「普通?」「神代家の財産に関する契約を初対面の親族と話すのに、まったく緊張しない人なら、その方が私は警戒します」 なるほど。
第16話 私がいなくなって初めて、元婚約者は気づきました 退職手続きのためにロイヤル・オルビス東京へ戻る日、美緒は思っていた以上に緊張していた。 たった数日前まで毎朝通っていた場所である。従業員用入口の位置も、休憩室の自動販売機の癖も、バックヤードで午前九時を過ぎるとコーヒーの香りが強くなることも、何もかも知っている。 それなのに今日は、建物が少し遠く見えた。「送ります」 朝食を終えたところで蓮司に言われ、美緒はすぐ首を横に振った。「今日は一人で行きます」「分かりました」 思ったよりあっさり引いたので、逆に拍子抜けする。「理由、聞かないんですか?」「聞いてほしそうですね」「そういう言い方します?」 蓮司はコーヒーカップを置いた。「聞きます。なぜ一人で?」「最後くらい、自分の足で行って、自分で終わらせたいからです」 退職の意思を告げた時も、自分で言った。 戻らないと決めた時も、自分で決めた。 なら、その最後まで自分でやりたかった。「それに、神代グローバルのCEOの車で乗りつけたら、みんな余計に気を遣うでしょう」「それはあるかもしれません」「でしょう?」「では送りません。ただし帰りは?」「自分で帰れます」「そうではなく、迎えに行ってもいいですか」 美緒は少し考えた。「……終わったら連絡します」「ありがとうございます」「まだ迎えに来ていいとは言ってません」「連絡をもらえるだけで十分です」 またそうやって、こちらが断りにくくなることを言う。
第15話 私が何度も警告していた問題が、全部残っていました 翌朝、美緒が目を覚ました時、蓮司の姿はもうなかった。 まだ六時半だった。 昨夜は神代征一郎との初対面を終えて帰宅したあと、二人で簡単な夕食を取り、柊木ホテルズの話を少しした。蓮司は「明日の朝、追加審査の会議がある」と言っていたものの、まさかこれほど早く出るとは思っていなかった。 枕元のスマートフォンには、一時間ほど前に届いたメッセージが残っていた。『起こすか迷いましたが、よく眠っていたので先に出ます。朝食は冷蔵庫にあります。無理に全部食べなくて構いません』 そこまで読んだところで、美緒は少し笑った。「無理に全部食べなくていいって……」 最初に出会った頃、自分が食事を取れていない蓮司を心配したことを、彼はまだ覚えているのだろう。 その下に、もう一文あった。『柊木ホテルズの件は、こちらで進めます。美緒さんが気にしていた資料について、確認できた事実だけ帰宅後に説明します』 美緒の指が止まる。 昨日、蓮司から聞いた。 現場が上げた改善要望のうち、経営会議まで届いていないものが多数ある。 しかも、その中には美緒自身が作った資料も含まれている可能性が高い。 考え始めれば、いくらでも悪い想像ができた。 亮介が止めていたのか。 途中の管理職が握り潰したのか。 あるいは、誰かが「重要ではない」と判断しただけなのか。 まだ分からない。 蓮司も、分からないことを断定しなかった。 だから美緒も、それ以上考えないようにした。 ベッドから出て、カーテンを開ける。 朝日が高層階の窓いっぱいに差し込んだ。 今日、美緒には仕事がない